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イベント報告


長崎の女性医師たちが…楠本イネ女史の墓参

日時:2018年8月25日(土)16:00〜18:00
会場:曹洞宗 晧臺寺(こうたいじ)

2018年2月に開催した日本女医会ブロック懇談会の際、来崎された日本女医会役員のみなさんが、多忙な中を会議の前に早朝から日本の女医の足跡を辿ろうと楠本イネの墓参をされたことを知りました。
だったら、ぜひ、地元の女性医師たちも見習うべきだと、ながさき女性医師の会および日本女医会長崎支部の会員に呼びかけをしました。せっかくの機会ですので、長崎医学同窓会でより広い人たちにも声をかけました。

チラシの一部は、以下の通りです

楠本イネの命日は、8月26日ですが、今回は、その前日の午後に、長崎県内から15名の女性医師が集まりました。
墓参の前に、長崎女性史研究会会員の山本芳江さんから楠本イネの生い立ちについてお話を聞きました。
晧臺寺 (こうたいじ) 様には、施設内のお部屋を快く提供していただき、感謝しております。
以下、一連の内容を報告します。





1. お話「楠本イネの生涯」       山本芳江さん(長崎女性史研究会会員)

・ながさき女性医師の会・瀬戸牧子先生が挨拶の後に、山本さんを紹介

<長崎女性史研究会> 1980年代後半から長崎に関わる女性たちの歴史を掘り起こす活動を始め、1991年発刊の『長崎の女たち 第1集』(2014年に第4版)と2007年発刊の第2集で、楠本イネを含む個人40人と10の女性グループを紹介している。

<長崎開港〜鎖国の頃> 1571年の長崎開港から、鎖国時代に唯一の開かれた貿易港となった長崎の状況について…キリスト教布教や南蛮貿易が広がるのを長崎に制限し、鎖国令後は、外国人を一カ所に収容する出島が作られ、ポルトガル人追放後はオランダ人のみが在留した。中国人については、唐人屋敷が開設された。

・当時、出島に入ることを許された丸山の遊女だが、井原西鶴曰く、「長崎に丸山といふところなくば、上方の金銀無事に帰宅すべし」というほど、人気の場所であった。

・開港後の大浦居留地は、家族で外国人が住めるようになり、洋装の人が歩き、ホテル・バーがあり、運送業者・宣教師・音楽家が行き交って、ハイカラな街となった。


<楠本イネの生涯について>


混血児として生まれ〜勉強好きの少女

・1827年 楠本イネは、父:フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(1796〜1866) 32才、母:そのぎ(=楠本たき1806〜1869)21才の娘として、出生した。両親は、1823年にシーボルト27才、たき17才で結婚。
当時、出島内部の人口を把握する必要があったために、懐妊の報告など記録が残っている。

・父シーボルトは、1824年に鳴滝塾として、オランダ語、医学、植物学を教える私塾を開いた。

・が、シーボルト事件(日本での収集品を国外持ち出し)で、1829年に父は国外追放となる。
この際、弟子・二宮敬作らにイネの支援を頼んで出国していた。

・母たきは、イネ4才の時に、日本人商人と再婚したが、5歳ころから寺子屋に通い、勉強好き。

伊予・宇和島へ〜医学の勉強に

・1840年、14才の時に、医学全般を学ぶために、二宮敬作を頼って、伊予宇和島に渡る。

・1845年、18才の時には、石井宗謙に産科学を学ぶために、岡山に移る。…当時、妊婦および新生児死亡率が非常に高かったことや、男性医師の診察を受けたくないために治療が手遅れになった妊婦をたくさん診たことことがきっかけで産科を学ぼうとした。

・1852年、24才で、娘たかを出産。(1851年、娘イネの様子を見に岡山に来た母たきを見送って帰る船の中で、石井宗謙に強姦されて妊娠、このいきさつは、古賀十二郎氏(1879-1954)に、たかが密かに話し、この記録は県立図書館に残されていたが、吉村昭氏が『フォン・シーボルトの娘』執筆のために永島正一氏に依頼して、知ることになったもの。

・その後、娘たかと共に長崎に戻り、磨屋町(阿部魯庵)に産科医術を学んだ。

・1854年[26才] たかを母たきに預け、宇和島の二宮敬作の下で、蘭学・産科・内科を学んだ。


長崎に戻り開業〜シーボルトとの再会


・1856年[29才] 二宮敬作、三瀬周三と共に長崎に戻って、医者として開業。

・1859年[32才] 父シーボルトが、長男アレキサンダー(14才)を連れて、再び、長崎へ。
医師ポンぺ、ボードウィンらに産科を学んだ。
当時の記録に、“腑分け(死体解剖実習)には46人の男性に交じって、一人の女医がいた”とある。

・1862年[35才] 父シーボルトが、長男アレキサンダーを残して、ドイツへ帰国。その後、シーボルトは1866年病死(享年70才)


再び、東京へ〜医術開業試験は男性のみ

・1870年[43才] 東京に移り、築地で産科を開業。
明治天皇の権典侍(側室)葉室光子の第一皇子の出産に立ち会った。(金百円)…この陰には福沢諭吉との関係などの支援があった。

・1875年[48才]医術開業試験(今の医師国家試験)が始まったが、男子のみに限定。

・1877年[50才] 再び長崎に戻る。
 *1866年 娘たかは、二宮敬作の甥で長崎で医師となった三瀬周三と結婚した。三瀬は、大阪医学校・病院や東京医学校の設立に携わったが、1877年に病死していた。⇒その後、産科学を学んだが、母と同様に医師・片桐重明に乱暴されて妊娠し、男子を出産。イネが周三と名付けて、イネの養子となり、たかは、その直後に医師・山脇泰助と再婚した。


長崎に戻り、産婆として…生涯を終える


・1885年[58才] 前年に医業開業試験の門戸は女性にも開放されたが、すでに57才のため断念して、産婆として長崎銅座町に開業した。
   *荻野吟子が1886年に女性として初めて医術国家試験に合格した。

・1892年[65才] 再び、東京に移り、娘たかと暮らした。

・1903年8月26日、東京市麻布区飯倉町で生涯を終えた。77才。

・墓は、長崎市寺町皓台寺の楠本家の墓地で、戒名は実祖院法林恵空大姉。恩師二宮敬作(1804-1862)も同じ墓地に眠る。



〇イネは、自分がやりたいと決めたことを諦めず、何とか達成しようとして生きた女性である。
(長崎−宇和島−岡山−長崎−東京−長崎−東京と頻繁に移動しているが、当時の交通事情ではかなりの負担だったはずだが、それを意にしなかった。)

〇イネには、女性という差別の前に、混血児という差別の目があったはずだが、自分の目標のために、強く生きた。

〇東京での開業や宮内省からの依頼には、彼女の社交性・知識人との交流があったからである。

◎宇和島には、“日本女医発祥の地”という碑があり、楠本イネをとても大事にしてる。(それに比べて、長崎では…

2お墓参り
楠本イネの墓地は、皓台寺のかなり高いところにありますが、1時間余りの彼女の生きざまを聞い後の元気で、坂を上っていきました。
お墓に行く途中には、楠本イネに加え、母たきと二宮敬作の功績を讃える顕彰碑がありました
(右の写真のところに「の石段のところに楠本イネの墓」↑と書いてありました)

 

 

 

この顕彰碑は、シーボルトゆかりの人たちの顕彰碑とあり、長崎県医師会、実行委員会、宇和シーボルト協会などの名前が彫られていました。

顕彰碑でひと休みして、また、坂を上っていきます。8月終わりの17時過ぎですが、まだまだ、西日の当たる坂道をみな、汗を流しながら… 

楠本家の墓地に着くと、お墓の周りには、まだまだ草が生えていて、それぞれが独自のお墓参り道具を持って来ていて、刈った草をごみ袋に入れ、水を替えて、お花を供えました。お墓のまわりを清掃しました。シーボルトと妻たきの物語を何した銘菓『おたくさ』も、いっしょに供えて…、それぞれに手を合わせました。

そして、楠本イネを育てた二宮敬作の墓も、同じ墓地内にあり、ここにも、みなでお参りをしました。
二宮敬作は、長崎で死去して、イネが墓地に埋めた後、散骨して、西予市宇和町の光教寺に遺髪塔があるそうです。


顕彰碑の前でみんなで記念写真を撮りました

これを機に、ながさき女性医師の会が中心に、楠本イネの歴史的存在意義を知らせたいという思いを強くしました。
また、長崎で働く女性医師が、また、医学を学ぶ次世代の人たちが、彼女の意志を継ぐひとりとして、医療を通じて社会に貢献できることを期待したいと思います。
さらに、楠本イネ生誕200年の2027年(これから9年後)、あるいは、没後120年の2023年(これから5年後)に、記念のイベントも企画したいという意見も出ました。

まだ、酷暑の中、参加したみなさんはお疲れだったと思いますが、山本さんの講話も素晴らしく、また、その後にお墓で手を合わせたことで、楠本イネ女史の思いを共有できたかな…と思う夏の夕べでした。




墓参行事報告をプリントアウトして読みたい方はココからPDFをダウンロードできます

 

 

 

 

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